
伊丹ミュージアムの『タピオ・ヴィルカラ 世界に果て』へ
数年前、東京ステーションギャラリーでヴィルカラの伴侶ルート・ブリュック展を観覧したことを
思い起こしながら観覧した。おまけとしてルート・ブリュック 『ライオンに化けたロバ』が今回
入口付近に唯一展示してあった。
ヴィルカラの基本姿勢は職人である。自然を享受し手を動かして考える。
多忙を極め心が枯渇する前にフィンランド最北地ラップランドへと帰り手つかずの原野に想像の場を求める。
展示作品は多岐に渡る ガラス。磁器。銀食器。積層材による彫刻。紙幣。照明。グラフィック。
作品の写真撮影は可能だったが心に留めるようにした。
何点もある積層材による彫刻のフォルムは何度も何度もドローイングし試作し、これ以上も以下もない最後の結晶。
作品には触れられないが頭の中の手で触ってみる。気持ち良さそう・・
ヴェネチアのガラス職人との共同で作った瓶のボッレやお皿のピアット・ディ・タピオ
光が透過する色彩とフォルムに長時間足が止まる。
全体に見応えがあり滞在予定を大幅に越えた。開催中もう一度行ってみたい。
グテーレスの言った地球沸騰化というネーミング通り我慢の毎日・・外で遊べない子供達が気の毒だ。
MOV(新築)とaun(リノベーション)に建築雑誌i`m homeさんが一昨日と昨日の2日間にわたり取材撮影に来ていただいた。
照りつく外部撮影でも納得いくまで、且つ楽しそうに(そう見える)撮影を続ける。
内部でもミリ単位でインテリアを調整する。なるほどな〜と勉強させていただく。
建築の中に身を寄せて改めて出来上がっているものを観察する。
理由の明確な設計意図よりも感覚に従って作ったものの方が味わいがあるように思う。
感覚の表現は誰にも正確に伝えられないし表出して初めて共有できるもの。
感覚を磨くものは身体で感じることが一番だ
大工の修行時代、朝6時半に工場集合で帰りは夜10時頃まで刃物を研ぐ、仕事を覚えて一人前になるまで人間ではない
と言われながら、毎朝起きると鼻血を出しながら必死に前を向いて仕事をしていた。
今はその時間が愛おしいし、必要な時間であり厳しい環境に置いてくれたことに感謝している。
そういったことは現代では大多数受け入れてはもらえない。
コスパにタイパになんでも短小に、ハラスメントに続々と冠が付く。
それは人に対する節度のない過度なことへの対応には良い時代になったと思うが
全て同じ袋に入れてしまい中庸も遠のいてゆく。
感覚を養うには無駄な時間も、心の浮き沈みも必須と思う。
ユニハ・パラッスマーの建築と触覚 空間と五感をめぐる哲学を何度となく読み返す。
前書きの一部に『視覚の優位性と、ほかの諸感覚の抑制に対して、そしてついには感覚的・官能的な特性が建築から消え失せてしまう・・
建築理論の関心事は、ずっと、焦点の絞られた視覚、意図のある志向性、遠近法による描写だ
しかし、生きられた経験の真の本質は、意図していない触覚的なイメージと焦点の絞られていない周辺視覚にある・・」
そう それそれ。感覚しか持ち合わせず明文化できない霧中の頭の中に確かに現れる文体に呟きながら慰めてもらうのであった。
coprinoという名前の建築が第16回JIA中国建築大賞2024 住宅部門 優秀賞に選出されました。
お施主、工事に関わって下さった方ありがとうございました。
初期に描いたドローイングは無くなってしまい、概ね構成が固まり始めたものがあったので
当時の試行錯誤を辿ってみました。
お施主の要望は暗くていいから籠るような感覚と使えるものは排除して、
使うものだけを身の周りに置きたいという2点でした。
北にはローカル電車の線路が平行して走り、その向こうには田園が広がる。
南には小高い山が連なり陽が落ちると猪が歩いているのを見かけるような長閑な地域。
元々は畑であった場所に若いふたりが結婚を機に新築を考えた。
長閑な地域性と「籠る」を紐解き、大きな傘のキノコの下に棲むコロボックルから展開した。
coprinoはコプリヌスというキノコの造語。
建築平面では構成を十文字にして中央にダイニングテーブル据え4方にアクセスすることで廊下が不要になる
北から時計回りにキッチン、サニタリー、リビング、寝室。
中2階にトイレと収納。小屋裏に個室を配置した。
外部の四隅が穿ったことで北東から時計回りに設備配置、エントランス、ガレージ、テラスという配置になった
エントランスは内部に入れてみようと試みたが、半屋外に出すことにした。外気の水分の問題も一年を通して問題なかった。
その全ての上に大きな傘を覆い被せた。
軒先が地面から7尺(2100ミリ)昔の民家を感じるフォルムにした。
まだ何もない土地に立ち空気を感じて事務所に帰り、論理とは程遠く、ふにゃふにゃと何日も落書きしながら
手を動くように動かして種が生まれてくる。この時が一番楽しいと思える。

