
インドへ ムンバイからバラナシ。またパタンにある階段井戸ラニ・キ・ヴァヴ。2018年プリツカー賞のバルクリシュナ・ドーシ、ルイスカーン、コルビジェの建築群のあるアーメダバードを巡ってきた。
6月から10月まで雨季に入る。豪雨のため出発前日にはムンバイで災害や空港閉鎖などの情報があったが翌日には小康状態となりムンバイ空港へは無事に着いた。現地到着後、もたつきながら予約した宿に向かったが『ここはインディアしか泊まれない』と取り合ってくれない。すでに深夜0時も過ぎて周りは退廃的な場所。いきなり野宿かと諦めかけながら隣の施設らしい建物をノックすると年配の男性が出て来てくれたがヒンディー語なのでよく解らない。『俺が宿を探してやるよ』的な感じだったと思うが男性の仲間がバイクで2人やって来た。呼んでくれたタクシーに『乗れ乗れ』と言うがままに。バイクで先導されながら親切なのか何なのか、よくわからないまま30分走り回った後、ビルの1室に通された。男が沢山居る。ああ運がなかったと諦めかけたが・・『ここに泊まれ』と言ったと思う。高い請求だったが野宿より随分ましだった。
朝、一室から見える風景はブルーシートのスラム街と真新しいビルの混在。道には飲食の廃プラがかなり散乱している。人々の往来とクラクションの音、牛、犬、駱駝、象、猿、栗鼠、万物が一体となる。オートリキシャー に乗って町を駆けると気分が高揚してくる。

ムンバイ南方の岬、インド門へ向かう。海に浮かぶガラプリのエレファンタ石窟群へは時化で船が出ず断念した。

タージマハル・ホテルの建築が見たくて宿にした。前日の件もあり、あまりの心地良さに昼間から爆睡してしまった。インドのタタ・グループ創始者ジャムセットジ・タタが1903年に開業。インド建築家が西洋新古典主義建築とインドの伝統様式を融合させた。パリ万博のエッフェル塔を見たタタが同じ鉄骨を発注し、今もホールの天井を支えている。2008年の同時多発テロでホテルが占領され多数の客、スタッフが犠牲になった。

利休の黒茶碗を作った楽家の初代長次郎から15代吉左衛門、次期16代篤人まで
それぞれの世代の茶器が展示された『茶碗の中の宇宙』へ。
初代長次郎(16世紀)が利休から依頼された華美を削ぎ落とした黒く無釉で粗野な形。
三代 道入(17世紀)が本阿弥光悦に教えを受けて作風を練ったり、逆に道入に
習い作った赤楽茶碗 『乙御前』は肉厚薄く椿の花が風に靡くような形。
15代 吉左衛門(現在)焼貫黒楽茶碗は破れる寸前まで焼き貫き強烈。
吉左衛門の茶碗にはサブタイトルがつけられていて
•『厳上に濡洸ありⅢ』厳裂は苔の露地 老いの根を噛み とか
•夜起対月(よるおきてつきにたいする) とか
作風も器から飛び抜け精神世界が現れています。
器という括りだけの自由表現が『不連続の連続』といわれる所以です。
15世代も続く葛藤にしびれる。
大分県の国東半島にある国宝富貴寺ここをメインに寄り道しながら回ってきた。
広島県福山市の瀬戸内海に面した造船会社の社宅
SETO 原田真宏+原田麻魚
斜面に建ち接道から17段上がると屋上がパブリックスペースに。
海側はキャンティとなって浮いている。
コンクリートとコールテン鋼。
東西の窓には洗濯物が干され人の存在を感じるが
それを忘れるぐらいの廃墟感。




ここから歩いて3分
同じ造船会社の社宅
せとの森住宅 藤本壮介
木造13棟 26戸 規格、屋根勾配同寸
日本集落を抽象的に表す。
ステンレス波板が全ての仕上げ。屋根が白いのは
空を映しているからで壁は山の緑が映り込む。




この2ヶ所の建築も素晴らしいが
社宅としてこの時代に思想のある建築を依頼した会社が素晴らしい。
広島市環境局中工場 谷口吉生設計研究所
ゴミ処理場。
海岸まできれいに整備され廃棄物処理場を感じさせるものは
1周回っても見受けられない。ただただデカい。



広島市 世界平和記念聖堂 村野藤吾
時間がゆるすならいつまでも居たい場所。





大分県国東半島に入り気になる構造物発見。
建築面積100坪は楽に超える物体
量感と荒々しさと建築物が無口すぎるので怖い印象。
掩体壕(えんたいごう)です。第2次戦時中、航空機を空爆から守る格納庫で
左右の長さは主翼からくるフォルム、小さい山は尾翼側。
負の遺産だが、いつまでも残したい建築物。



国宝 富貴寺(718年)
何年か前 アサヒビールのCMで福山雅治が
この前で天を仰いでいた。




総榧つくり (将棋盤によく使います)
3間4間 宝形屋根
軒の出と柱の長さがほぼ同じで
このプロポーションが成立している。
時間のゆるす限り居たが離れるのが名残惜しいとは
このことでした。

鬼門側より




